数学と近代文学 (アリス・バンフォード)

以下の文章はNew Left Review (NLR) 124/July-August 2020に掲載されたALICE BAMFORDによる"MATHEMATICS AND MODERN LITERATURE"の訳出である。

詳細は当該稿冒頭にエディターが記しているので省くが、彼女の博士論文Chalk and the Architrave(『チョークと縁』)からの抜粋である。

彼女は英文学、文芸批評を専門とすると同時にNLRならびにVersoの編集としても活躍していた。

原文はこちら.

1.

 イムレ・ラカトシュ『証明と論駁』に出てくる生徒のガンマは「文芸批評家がいるように、数学の批評家がいて、公的な評論によって人々の数学的センスを養ってみるのはどうか」(p.104)と提案する。ラカトシュの寓話は数学の教室を舞台としている。生徒たちは多面体のオイラー的性質(デカルト・オイラー予想)の証明について議論している。『証明と論駁』では、オイラーの定理が素朴な思い込みとして誕生してから19世紀数学における幾つかの誤りと革命を経て、一人前になるまでの道のりを追っている。100年に及ぶ数学史の中をスピード感を持って駆け抜けていく中で、生徒たちはラカトシュの教訓を生きていく。つまりは、厳格さならびに証明というものは歴史的に変化する値(歴史に応じて影響される変項の値)であり、同様に歴史的に変化する実践に他ならないということを。『証明と論駁』は誤りや失敗の価値についての教育も提供している。というのも、数学的知識は弁証法的批判によって発展するからである。

 ラカトシュは、数学の哲学における「形式主義」こそが敵だと公言している。特に彼は数学を「形式的で公理的な抽象化」と同一視し、数学の哲学をメタ数学と同一視する形式主義者たちによる数学のイメージに対して異議を唱えている。ラカトシュの考えでは、形式主義は数学を数学の哲学から切り離しているだけではなく、数学の歴史からも切り離している。

「形式主義者による数学の概念によれば、数学固有の歴史なるものは存在しない。形式主義者であるならば、ラッセルの「ロマンティックな」発言に基本的には同意するであろうが、それを過度に真面目な意味で受け取り、ブールによる『思考の法則』(1854年)こそが「数学について書かれた最初の本」であるとみなすのだ」

 ラカトシュの見解によれば、形式主義的観点とは別に、数学は特定の文体に無理に固執することによって自ら歴史から逃れようとしている。この「ユークリッド的」または「演繹主義的」な文体は、数学の表現に対して固定的な構造を押し付けている。どのようなものかといえば、公理、レンマにくわえて定義のリストから表現のテキストは始まり、リストの後に定理が続き、そして定理の後に証明が続く。数学テキストの読者は「手品的な行為」をじっと注視することになる。また演繹主義的な文体は「すべての命題は真であり、すべての推論は妥当である」というドグマを押し付け、数学なるものを「永遠にして不変である真なる定理が増加し続ける集合」として提示する。帰結や結果を試行錯誤の発見的な文脈から切り離し、数学者による発端となった推測や反例の作成、証明の検証や構成といった作業を隠すことで、演繹主義的なテキストの文体はまさに終着地点という感覚を高め、批判に対抗するために自分自身を強化する。「演繹主義的なテキスト上の文体は」とラカトシュは書いているが「奮闘を隠し、数学的な冒険を隠す。物語全体が消え、証明過程における定理の絶え間なき暫定的な定式化なるものは忘却の彼方へと追いやられ、一方で、最終的な帰結は聖なる無謬性へと昇華されていく」。ラカトシュは、それらの文体の代わりに、テキストがテキストによって自らの出現、つまりは憶測に推測、反例と批判と証明分析の冒険と闘争を物語るような試行錯誤に基づく発見的な文脈を表現するスタイルの採用を提唱している。

2.

 ガンマの提案した新しいジャンル「数学への批評」は、数学上のマニフェストや序文、たとえ話や比喩にエッセイといった形のうちに見出すことができる。それらは数学それ自体ではないものとされているものとの絡み合いを媒介し、枠取るものであり、近代数学の際(きわ)に位置するジャンルである。これらの規範的にしてパフォーマティブな分野に対する批評の仕事は「公的な批判」によって数学にまつわる「趣味」を形成しようとしている。数学上のマニフェストは、数学の学問としての自己構築に数学の文化的イメージの諸相、さらには数学的知識が埋め込まれている社会構造の間のそれぞれのリンクを補強し、再編する。「数学‐周縁的な」あるいは入り口的なテキストのうちに展開される比喩や修辞的な戦略はある種の媒介者である。つまりは数学を証明の形式言語から歴史と修辞の絡み合いによってなる言語のネットワークへと翻訳する。同時に、数学上のマニフェストは、それらが書かれた歴史的日付における政治的条件や文化的な諸前提を動員する。厳密さや正確さといった数学的価値観の形成に関わる学問領域上の社会的、文化的な歴史の痕跡はマニフェストにおける数学批評のうちに刻まれている。

 マニフェストは19世紀と20世紀の数学史の中で重要な瞬間を記している。オーギュスタン=ルイ・コーシーの1821年の教科書である『解析学講義』の序章は、多くの数学史家にとって、それまでの150年間の非常に生産的ではあるが形式的ではない微積分の発展とその形式化の開始の地点との間の分岐点を示しているものと考えられている。ヘルマン・ワイルの1921年の論文「数学基礎論の新しい危機について」は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての「基礎の危機」に対する、ある意味で最も鋭い反応であったが、その危機とは形式化の努力における矛盾、あるいはその内在的限界を示した一連の数学的到達の帰結として生じたものであった。二コラ・ブルバキの論文「数学の建築術」(1948年)は数学を再構築しようとした試みとして20世紀半ばにおいて非常に大きな影響力を持っていた。「ニコラ・ブルバキ」という名前は主にフランスの数学者からなるグループの総称で、彼らの手による『数学原論』は、近代数学の核となる要素を形式化された言語を大幅に用いて自己完結的に再構築することを目的としていた。

3.

 数学におけるマニフェストとは、数学の新しい基礎プログラムを発表し、先行する秩序を打ち破り、数学とその歴史のあるイメージを促進する論争的でパフォーマティブな領域批判の仕事である。確かに「モダニストの数学」と文化的な領域における運動としてのモダニズムの様々な形式の間には幅広い類似点がある。つまりは伝統との破局、形式主義への転換、および高度な自己反芻性(再帰性)といった。このように、数学上のマニフェストは、マリネッティによる「未来派文学の技術宣言」(1912年)やエズラ・パウンドの「ヴォーティシズム」(1914年)、フレーブニコフの「世界の芸術家に!」(1919年)やフランソワ・ル・リヨネー、レイモン・クノー、ジャック・ルーボー等の「ウリポ宣言」(1960-73年)などの文学と芸術のマニフェストといった別のジャンルの事例の傍らで読むことができるやもしれない。

 数学に対する言及は、ヨーロッパの前衛等のマニフェストに浸透している。一つの有機的なメタファーとしての数学の展開、そして数学の認識的徳へのアピールは、事実として、文学や芸術運動の構築における共通戦略である。たとえばノヴァーリスのロマン主義の定義、イマジズムのトーマス・アーネスト・ヒュームの幾何学的古典主義、あるいはパウンドのヴォーティシズムのマニフェストにおける数学的なアナロジーなど。数学の歴史が、近代的な正確さや精密さ、あるいは基礎的な厳密さへの「王道」というよりは、むしろ基礎への切り詰めやその有効性としての形式主義への呼びかけといった循環的にして戦略的な展開の証人であるように、文学史もまた、領域的な再交渉の潮目において文化的かつ象徴的な資源として数学の循環的で戦略的な発展を反映している。ムジール、パウンド、ベケットなどに見受けられるように。

4.

 ブルバキによる雷鳴であった『数学原論』はやや地味かつありきたりなプロジェクトとしてスタートした。アンリ・カルタンとアンドレ・ワイルは、ストラスブールで微積分の授業を担当していた若い数学者であった。回顧録において、カルタンはよい解析の教科書がないことにいつも文句をいってて、微積分のコースをいかに教えればいいのかを詰問してくることでワイル自身を困らせていたと記している。この問題を解決するために、ワイルは数学者のグループ(様々な大学で同じテーマを教えている彼らの友人たち)を集めて、彼らが考えていることをまとめて新しい解析教程、つまり新しい教科書を書くことを提案した。このグループは1934年12月10日に会合を開き、「解析概論」について議論を行った。会議の議事録には以下のように記録されている。

「解析に関する論説の共同執筆を通じて、今後25年間の微積分の履修内容を確立するというプロジェクトをワイル氏は発表した。この論説は可能な限り現代的なものにすることで合意がなされた」

 1935年1月14日の委員会会議において、函数解析の専門家シューレム・マンデルブロは「ひとつの一般原理」を提案した。それは必要なすべての一般的かつ抽象的な理論は本の冒頭で与えられるべきというものである。「研究者(大学講師であるか否かは問わず)、学生、将来の教師、物理学者、そしてすべての技術者など、誰にでも使えるような論説を書かなければならない」とワイルは述べている。このようにして諸数学の道具たちは最も普遍的な形で与えられることになった。この冒頭の抽象的なセクションは、当初の目的であった解析に関する概説を包摂するまでに成長していった。その結果、ブルバキのプロジェクトは「究極の数学の教科書」を書くこととして再定義された。『数学原論』というタイトルにおけるmathématique という語の選択もまた挑発的であった。つまりブルバキは従来の複数形のmathématiquesではなく単数形を採用したのである。未発表の草稿の序文はさらに強い印象を与えるものであった。「唯一無二にして不可分なただ一つの数学がある。そして25世紀の光に照らされて明らかにされるであろう諸要素こそが本稿の理論的な土台となる」。

5.

 今日では「ブルバキ」という名前は数学的構造主義ならびに禁欲的にして形式主義的で公理主義的なスタイルを含意してる(そして当時のことを覚えている年代の人たちにとっては、1960年代に短期間だけ隆盛した過度に集合論に重点を置いた「新数学」なるカリキュラム改革運動のことを実際には意味している)。しかし、ブルバキの構造主義とその公理主義的なスタイルは相反するものであり、矛盾しているものでさえあった。ブルバキの捉える構造なるものは二重生活を送っていた。というのもブルバキの仕事において「構造」なる語には形式的な意味と非形式的な意味の両面があったからだ。ブルバキによる数学についての構造主義的なイメージは、何よりも彼らの数学‐周縁的な書き物に依拠している。化学技術者、詩人、数学者であったフランソワ・ル=リヨネは、彼の『数学思想の流れ』(現実には未完にとどまった百科事典的プロジェクトであるのだが)二巻の中に「数学の建築術」を採録しようとした。彼はその後、ウリポ(潜在文学運動(OuLiPo))の創立メンバーの一人となって、ウリポ運動の最初のマニフェストを書くにいたる。

 ブルバキのマニフェストによれば、たとえ実際に数学が高度に専門的な諸領域へと各分野が個別に分断されているように見えたとしても、学問分野として統一性を保ちうるし、今後も統一的なものとして維持されるだろうと主張されている。「公理的方法」こそが数学という学問の断片化、各領域間の島宇宙化という危機に対してブルバキに残された保険かつ保証であり、数学の諸領域が「自律的な領域で構成されたバベルの塔」になる可能性に抗する手段である。ブルバキの公理的方法は「様々な数学理論の間に存在している関係を体系化する」ことを可能にする。ブルバキのプロジェクトは、(基礎的な要素への)分析と(数学理論間の)総合のプロセスによって、数学の様々な領域の根底にある統一性を示すものであった。それぞれの理論は構成要素へと分解され、次にそれらの要素間の関係が明らかにされ、数学的「構造」の種類(順序、位相、代数など)に応じて階層上に整序されていく。このようにして「正しく言うならば、数学的構造こそが数学の唯一の「対象」となる」のである。ブルバキは、彼ら流の数学の再構築プロジェクトを説明するために、二つの近代化にまつわるメタファーを用いている。それはオスマンによるパリ改造とテイラー式の工場ラインの管理である。オスマン式の都市計画を比喩として用いることで、数学とは

「より明確にしてより壮大な再編プランにしたがって、常により直接的で、より広く、より便利な外周部への新しい舗道を立ち上げるべく、その都度迷路のような路地をもった古い地区を解体しつつ、その中心部は定期的に再構築されている一方、その郊外は、周囲の土地に向けてやや混沌としたやり方で成長を止めることのない大都市のようである」

とブルバキは記している。また公理的方法は「思考の経済」を可能にするとも主張している。つまり「公理的手法は数学の「テイラー式システム」、いわば「科学的管理」に他ならないと言えるだろう」、と。しかし、この工場ラインの比喩なるものは不十分であることが示され、ブルバキはすぐに彼らの主張を撤回することとなる。つまり「この工場ラインの比喩と数学の営みの比較は十分に近しいものではない。というのも数学者は組立ラインの作業員のように機械的に作業するわけではないからだ。彼らの研究においてある特別な「直観」なるものが果たす根本的な役割を過小評価することはできない」と述べるに至る。彼らのこのマニフェストには否認の瞬間が満ち満ちている。

 ダフィット・ヒルベルトによる数学的形式主義の継承者であることを自称する一方で、ブルバキは、構造と形式の無機質でモダニズム的な、しばしば建築になぞらえられる登記に加えて、生物学的な言語の有機的な記名を展開することによって、形式主義にレッテルとして貼られた非難(つまりは構造や形式なるものは「生命のない骨格」であり、機械のようであり、物理的な現実から切り離された、どこか非人間的なものであるといった非難)から自身らを免責させようとしている。実際には、ブルバキによる生物学的な言語の使用は、ヒルベルト自身が用いていたレトリックの残響である。ヒルベルトもまた、数学の統一性を擁護するために、ロマン主義的で、有機的な全体を表現すべく、生物学的な比喩を使用していた。「数学は、私の考えでは、不可分の全体であり、その生命力なるものが、数学の各部分間のつながりによって条件づけられている一つの有機体である」といったような。

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D'ailleurs, c'est toujours les autres qui meurent.

Last modified: Thu AUg 26 18:50:41 JST 2020